近藤富蔵は、旗本・近藤重蔵の長男。父の別屋敷の地主だった百姓一家の者など7人を殺害し、1827(文政10)年、八丈島に流罪となりました。死傷者は、富蔵の手になるもの、殺害4人、傷害2人。家来が1人殺害。富蔵は武士なので一般人を殺害しても「無礼打ち」で済むところでしたが、女性まで殺害したため、流罪となりました。殺害されたお婆さんの恨みの目が忘れられなくて、島ではノミ・シラミも殺さぬ生活と送ったといわれています(『八丈島の民話』参照)。1880(明治13)年に赦免され、一旦上京し、政府の役人だった弟に会いに大坂に行き、父の墓参りや熊野詣(くまのもうで)をした後、東京にもどりました。 東京での生活の見込みもなかったため、帰島し、1887(明治20)年、83歳で没しました。公式文書を含む古文書を整理し、加筆修正した編著書『八丈実記』は、1878(明治11)年に東京府警視本署より清書・上納を命じられました。また、明治19年に東京府より『八丈実記』の上納を命じられ、明治20年に上納しました(現在、東京都公文書館蔵)。生活のためもあり、旧家の系図整理、仏像の修復、石垣構築などを行い、また、末吉(すえよし)地域、三根(みつね)地域の夕学(夜字校)の創始にも貢献しました。墓石の右隣に水汲み逸の墓が、左隣に、八丈島司・小池友徳の文による1923(大正12)年に建てられた顕彰碑があります。富蔵については、町の出版物として、『島を愛した男 近藤富蔵』があります。